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Middle weight

▼ミドル級ベスト10

 1位   シュガー・レイ・ロビンソン
 2位   マービン・ハグラー
 3位   カルロス・モンソン
 4位   ハリー・グレブ
 5位   スタンレー・ケッチェル
 6位   ミッキー・ウォーカー
 7位   ディック・タイガー
 8位   マルセル・セルダン
 9位   トニー・ゼール
10位   ジェイク・ラモッタ


“ミスター・ボクシング”シュガー・レイ・ロビンソンはピーク時のウェルター級でランクされることもあるが、いずれにしろトップは不動だろう。

70年代のモンソン、80年代のハグラー、90年代のロイ・ジョーンズと、このクラスは各世代でパウンド・フォー・パウンドNO1と謳われた屈指の名王者が顔を揃えている。
ケッチェル、グレブ、セルダン、ゼールなど伝説の英雄もランキングの常連だ。

尚、ロイ・ジョーンズはLヘビー級としてランクした。




■1位 シュガー・レイ・ロビンソン

全ての時代、全ての階級を通して最強のボクサーと言われるロビンソンは、パワー、スピード、テクニックの全てを兼ね備えたパーフェクトなボクサーだった。アリがロビンソンのボクシングを手本にしたように、近代ボクシングのパイオニアでもある。

自動車工場の都デトロイトで生まれたウォーカー・スミスJrは7歳の時に両親が離別した為、少年の頃から靴磨きなどをして働いた。ある日、飛び入りでアマの試合に出たスミスは対戦相手をKO。以来、ボクシングの虜になってしまう。アマのデビュー戦では年齢制限があった為、他人の名前を借りてリングに上がった。華麗なるレイ・ロビンソンの始まりだった。アマチュアでは85戦全勝(69KO)という快記録を残した。

40年にプロ転向後、いきなり40連勝を記録。46年12月、トミー・ベルに判定勝ちしてウェルター級王座を獲得した。タイトルを5度防衛した後、51年2月にジェイク・ラモッタをサンドバッグ状態にして13回TKO勝ち、ミドル級を制した。同年7月、ランディ・ターピンに敗れるまで88連勝を記録した。ターピンには2ヵ月後に10回TKOで雪辱してタイトルを奪回。

翌年、Lヘビー級王者ジョーイ・マキシムに挑戦。ポイントをリードしたが、リング上は華氏104度という暑さの中でラッシュを敢行。スタミナをロスして14回に無念のリタイア。その後、カール・ボボ・オルソンに勝って3度目の王座へ。ジーン・フルマー、カーメン・バシリオに敗れたが、いずれも再戦で奪回、ミドル級で通算5度王座に就いた。

201戦174勝(109KO)19敗6分1ND1NC。

■2位 マービン・ハグラー

鍛えぬかれた肉体、完璧なテクニック、超人的なタフネス、そしてハングリー精神と三拍子も四拍子も揃った完成されたチャンピオン、それがハグラーだ。

ニュージャージー州ニューアークに私生児として生まれたハグラーは地元ではいわずとしれた不良少年だった。やがてアマチュアのリングに上がるようになり、1973年にはAAUのタイトルを手にした。72年にプロデビュー、順調に勝ち進むが、76年にボビー・ワッツ、ウィリー・モンローに不運な判定負け。後にいずれもKOで借りを返すなど、以後87年にレナードに敗れるまで11年間無敗を誇った。

79年の世界初挑戦はビト・アンツォフェルモと引き分け。翌80年9月、アラン・ミンターを3回KOに破り、「無冠の帝王」と呼ばれた時代にピリオドを打った。七連続KO防衛の後、83年11月デュランに判定勝ち。オフィシャルの採点は接近していたが、ハグラーの完勝と言っていい内容だった。85年4月にはハーンズと歴史に残る激戦を繰り広げ、3回TKO勝ち。稀に見るエキサイティングな試合として語り継がれている。86年、”怪物”ジョン・ムガビを11回KOで葬り、12度目の防衛に成功。

そんな磐石の強さを誇るハグラーに待ったをかけたのがレナードだった。87年4月、ハグラーは13度目の防衛戦で、この日の為にカムバックしてきたレナードの挑戦を受ける。アウトボクシングに徹するレナードを終始追いつづけたハグラーだったが、微妙な判定を落として王座を失った。

65戦60勝(52KO)3敗2分。

■3位 カルロス・モンソン

伝統的に米国で支配されてきたミドル級のタイトルが、長期に渡って中南米に流出したのが70年代のことだった。その主役が、あまたのラテンヒーローの中でもパウンド・フォー・パウンドのNO.1と謳われたモンソンだ。

天才肌のモンソンは自由放任、徹底した快楽主義者だった。練習不足を囁かれながらも、試合では圧倒的な強さを見せた。
モンソンが世界に初挑戦したのは70年11月。ローマで行なわれた決戦は、モンソンが地元の王者ニノ・ベンベヌチを一方的に打ちまくり、衝撃の奪還を遂げた。初防衛戦ではベンベヌチを3回KOで片付け、前回の勝利がフロックではないことを証明した。2度目の防衛戦ではあのエミール・グリフィスを14回で仕留めた。

74年2月、ウェルター級の名王者ホセ・ナポレスには”ライフル”の右で圧倒、老雄を棄権に追い込んだ。76年、対立王者(WBC)となっていたロドリゴ・バルデスに勝って再びタイトルを統一。翌年再びバルデスに勝って14度目の防衛に成功すると「もうリングの中で証明するものは何もない」と、不敗のまま引退した。

引退後のモンソンは自由奔放な生活の付けが廻ったのか悲惨な最期を迎える。88年、元恋人だったマリシア・ミュニズさんを殺害した罪で懲役11年の判決を受け、サンタフェ刑務所に服役。93年から一時的な外出を許されていたモンソンは95年1月、外出を終えて刑務所へ戻る途中、自ら運転する車の事故によって亡くなっている。52歳という若すぎる死だった。

102戦89勝(61KO)3敗9分1NC。

■4位 ハリー・グレブ

恐れを知らぬ猛烈なファイターで”ピッツバーグ”の人間風車の異名をとった。”ローリング・トゥエンティーズ”(激動の1920年代)を駆け抜けた、ミドル級きっての豪傑としても知られる。

1913年、18歳でプロデビューしたグレブは、19年には44回もリングに上がるなどハイペースで試合をこなしていった。ヘビー級の強豪との対戦も多く、とりわけ有名なのがジーン・タニーとの対戦である。22年、タニーの持つ全米Lヘビー級に挑戦したグレブは、いきなりバッティングでタニーの鼻を折るなど、巧妙な反則を仕掛けてタイトルを奪取した。グレブは「史上最もクレバーなヘビー級王者の1人」と言われたタニーに生涯唯一の黒星をつけた男としても歴史に残っている。(2人は5度対戦してグレブの1勝2敗2ND)

23年にジョニー・ウィルソンに判定勝ちで世界ミドル級王座を奪うまで、実に200戦以上戦っている。(負けは僅かに3度)25年には当時ウェルター級王者だったミッキー・ウォーカーの肉弾アタックを完封。6度王座を防衛した後、26年にタイガー・フラワーズに敗れてタイトルを失い、半年後の再戦でも敗れた。
この時彼の両目は殆ど全盲に近かったという。グレブは21年のキッド・ノーフォーク戦でサミングされて以来、5年間片目だけで戦ってきたのだった。フラワーズ戦後、視力回復手術の失敗で伝説の豪傑は32歳の若さでこの世を去った。

115勝(47KO)8敗3分170ND。

■5位 スタンレー・ケッチェル

1949年に公開された映画「チャンピオン」はリング・ラードーナーの小説を元にしたボクシング映画の傑作である。若き日のカーク・ダグラスが冷酷非情のボクサーを演じている。この映画のモデルになったのが”ミシガンの暗殺者”の異名をとったスタンレー・ケッチェルである。

ケッチェルはミシガン州グランド・ラピッズで、ポーランド系アメリカ人の子として生まれた。本名はスタニスラウス・キーカル。14歳の時、家を出て放浪生活を始める。酒場の用心棒時代に250戦以上の草試合を経験して、16歳の時に初めてプロのリングに上がった。
1907年、ジョー・トーマスに32回KO勝ちして空位のミドル級王座に就いた。ケタ外れの強打で無敵を誇ったケッチェルだが、1908年伏兵ビリー・パプケに12回KO負けの不覚を取る。2ヵ月後の再戦では宿敵パプケから14回もダウンを奪い、11回KO勝ちで雪辱。

翌1909年、ケッチェルはヘビー級屈指の名チャンピオン、ジャック・ジョンソンに挑戦した。93キロの王者に対し、ケッチェルは77キロで体重差16キロという無謀ともいえるマッチメークだった。通説ではこの一戦は「出来試合」で、事前の約束ではノー・デジションになる予定だったという。しかし倒せると色気を出したケッチェルが、12回に右のビッグパンチでジョンソンをダウンさせてしまう。怒りの反撃に出たジョンソンは数秒後には右アッパーを決めて、ケッチェルを失神させた。

翌1910年、人妻に手を出したケッチェルは背後からリボルバー弾を打ち込まれ、24歳の生涯を閉じた。

52勝(49KO)4敗4分4ND。

■6位 ミッキー・ウォーカー

1920年代、禁酒法の時代を生きたトイ・ブルドッグことミッキー・ウォーカーはアル・カポネとも奇妙な友情で結ばれていたという。破天荒な生活でも有名で、リングで稼いだ金はブロードウェイやハリウッドでたちまち湯水のように使い果たした。

アイルランド系米人のウォーカーは、ニュージャージー州エリザベスで生まれた。17歳でプロにデビュー。しばらくは地方の強豪に留まっていたが、名マネージャー、ドック・カーンと出会い人気も上昇していった。
22年にはジャック・ブリットンに勝ってウェルター級王座を獲得。25年ミドル級王者グレブに挑んだが判定負け。翌年にはピート・ラッツォに敗れ、5度守ったタイトルを明け渡した。半年後、タイガー・フラワーズのミドル級王座に挑戦し、判定勝ちで2階級を制覇。

31年7月、身長167センチとミドル級でも小柄なウォーカーが、なんとヘビー級に挑戦する。3度防衛したミドル級タイトルを返上して、ニューヨーク州公認のヘビー級チャンピオン、ジャック・シャーキーに挑んだ一戦は予想を覆す善戦で15回ドロー。その後はLヘビー級でマキシー・ローゼンブルームに挑むも判定負けしている。

95勝(59KO)18敗4分32ND1NC。

■7位 ディック・タイガー

アユブ・カルレ、アズマー・ネルソン、アイク・クォーティといった名選手を輩出してきたアフリカはボクシングの宝庫だ。そのブラック・アフリカが生んだ史上2人目の世界王者がディック・タイガーである。正統派の欧州スタイルにアフリカの野生をミックスさせたボクシングは魅惑に溢れていた。

ナイジェリアで生まれたリチャード・イヘイツことディック・タイガーは23歳の時プロデビュー。2年後には英国へと渡った。野性味溢れるファイトは英国のファンに「まるで虎のようだ」と称えられ、以後これが彼のリングネームとなった。3年目には英連邦王座を獲得し、同じ英連邦国カナダから北米へと活躍の場を移した。

63年8月、ジーン・フルマーを7回TKOに下して王座を奪取。33歳という遅咲きのチャンピオンだった。12月にジョーイ・ジアルデロに判定負けし王座を失うが、2年後に雪辱して返り咲きを果たしている。初防衛戦でグリフィスに判定負けしてLヘビー級に転向。66年12月、天才派王者ホセ・トーレスに判定で勝って2階級を制覇した。37歳にしての快挙だった。トーレスを再戦で退けた後、3度目の防衛戦で20センチも背の高いボブ・フォスターに4回KO負けで王座を失った。40歳までファイトし続け、70年エミール・グリフィスに判定負けしたのを最後に引退した。

80戦61勝26KO16敗3分。

■8位 マルセル・セルダン

1940年代、執念のファイトで多くのファンの支持を受けたのがマルセル・セルダンである。フランス黄金時代の英雄でもあった。

アルジェリア出身のセルダンは1934年にプロデビュー以来、しばらくはアルジェリアやカサブランカを主戦場としていたが、やがて花の都パリに本拠地を移した。デビュー以来45連勝を記録した後も23,33連勝と快進撃を続ける。間の2つの負けはいずれも反則によるもので、これがなければとんでもない記録になっていただろう。

48年9月”鋼鉄の人”トニー・ゼールを12回TKOに下し王座に就いた。デビュー14年目、32歳にして頂点に立つまで実に108戦を要している。激しい打ち合いの中で天下一品の根性を見せたセルダンの評価は米国でも上昇した。
49年6月初防衛戦の相手は”猛牛”ジェイク・ラモッタ。ファイター同士の激しい打ち合いとなったが、途中肩を痛めたセルダンが10回に棄権して王座を失う。その4ヵ月後、リターンマッチのため空路米国へと向かったが飛行機が墜落。セルダンは33歳で2度と帰らぬ人となってしまった。恋人でシャンソン歌手のエディット・ピアフが歌った「愛の賛歌」はセルダンに捧げられたものと言われる。

113戦109勝(66KO)4敗。

■9位 トニー・ゼール

製鉄所に勤務していたことから、付いた仇名が”鋼鉄の人”。その名に恥じないタフで勇敢な戦いぶりが人気を集めた。強打者として知られ、特に左フックは一打必倒の威力を秘めていた。

アンソニー・フローリアン・ゼールスキーことトニー・ゼールはポーランド系米人として生まれ、1934年プロのリングにデビューした。シカゴを本拠地として戦ったが、デビュー当初は負けも多かった。
38年辺りから次第に頭角を現し、40年7月にアル・ホスタックを13RにTKOして、NBA王者となった。41年11月にはNYCA王者ジョージ・エイブラムズを判定に下し、統一王者になっている。この後、第二次世界大戦のため米海軍に入隊して約4年間のブランクを作った。

46年にカムバックして、有名なロッキー・グラジアノとの3連戦が始まる。この年9月の初対決でゼールはグラジアノに6回KO勝ちで初防衛。翌年7月、今度はグラジアノが6回TKO勝ちしてタイトルを奪った。迎えた第3戦は48年6月に行なわれ、執念を見せたゼールが得意の左フックを決め、3回KOで王座を奪回した。既に35歳を迎えていたゼールは9月マルセル・セルダンに12回TKO負けで王座を追われ引退した。

89戦70勝(46KO)17敗2分。

■10位 ジェイク・ラモッタ

ロバート・デニーロ主演の映画「レイジング・ブル」のモデルとしても知られる。ブロンクスの猛牛の異名通り荒々しい喧嘩ファイトを売り物とした。史上屈指のタフネスを誇り、ロビンソンの強打を浴びながらも最後まで倒れることを拒絶した根性には誰もが驚いた。

ニューヨークのスラム街出身のラモッタはイタリア系アメリカ人の子として生まれた。41年にデビューしてから無類のタフネスと好戦的なファイトスタイルで勝ち進むが、なかなかチャンスに恵まれなかった。47年には連続KOで売り出し中のビリー・フォックスと対戦するが、プロモーターからの八百長要請を受け入れて4回TKO負け。これが明るみになって一時サスペンドされた。

49年6月デトロイトでマルセル・セルダンに挑戦、10回TKO勝ちで王座に就いた。2度タイトルを守った後、51年2月ロビンソンの挑戦を受け、13回TKOでタイトルを失った。ロビンソンとは5度戦い1勝4敗。43年2月、2度目の対戦で10回判定勝ちし、ロビンソンにプロ、アマを通じて初の黒星を与えたのは有名。54年、ビリー・キルゴールに敗れたのを最後に引退した。

106戦83勝(30KO)19敗4分。




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