▼ 70年代特集 ミドル級】
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■70年代のミドル級 (2001.4.15更新)

 ▼ミドル級ベスト3

 1位   カルロス・モンソン
 2位   ロドリゴ・バルデス
 3位   アユブ・カルレ

70年代のミドル級はモンソンの独壇場だった。70年11月モンソンに敗れるまで王座に君臨したベンベヌチを入れてもバルデス、コーロ、アンツォフェルモ、そしてモンソンと、10年間で王座に座ったのはたったの5人のみだ。まさに70年代はモンソンの時代だった。
今回の選出はベスト3まで。ベンベヌチは60年代の選手ということで割愛した。

7年間で14度の防衛(ミドル級レコード)に成功、不敗のまま引退したモンソンは70年代パウンド・フォー・パウンド最強の王者と言われた。
恵まれた体格、ライフルと呼ばれた強烈な右ストレート、無類のタフネスとスタミナで、グリフィス、ナポレス、欧州ナンバーワンのブーシェ、ブリスコ、バルデスら強豪の挑戦をを全く寄せ付けなかった。一見スピードもなく、大味なボクシングは見た目の派手さはないが、タフな上に鉄壁のディフェンスを誇り、動きにも無駄がなく、常にクールな戦いぶりにスケールの大きさを感じさせる天才肌のボクサーだった。徹底した快楽主義でも知られ、遠征にはいつも愛人を同伴、多くの女優とも浮き名を流した。
自由奔放に生きたモンソンだったが、88年かつての恋人と口論となり、誤ってバルコニーから突き落とし、殺人罪で服役。95年、外出から刑務所に戻る途中、自ら運転する車で事故死という悲劇的な最期を遂げた。

バルデスはモンソンの陰に隠れ、常にランナー・アップ(2番手)の存在に甘んじたが、ボブ・キャシディ、ドク・ホリディ、カーロス・マークスといった名うての強豪を降すなど「モンソンを倒すのはバルデスしかいない」と言われるほど実力は確かなものがあった。オールラウンド型のボクサーで強打にも定評があった。
スキンヘッドで“海坊主”の異名をとったベニー・ブリスコとは3度対戦して全勝(1KO)。74年空位のWBC王座決定戦ではタフなブリスコに初の10カウントを聞かせている。モンソンとの統一戦に敗れるまで4度の防衛に成功。モンソン引退後、再びブリスコと統一王座を争い、判定勝ちで王座に返り咲いたが、初防衛戦でコーロに敗れている。

まるで筋肉の鎧を纏ったかのような逞しい肉体を持ったカルレは、ワイルドな外見とは裏腹の華麗なテクニックを誇るサウスポーだった。74年世界選手権優勝のアマ実績を誇り、筋金入りのテクニックはプロ入り当初から光っていた。ホセ・デュラン、カステリーニ、オベド、ホセ・エルナンデス、レイ・シールズ、フィネガン・・・カルレの軍門に降った強豪は数知れない。
79年10月、工藤の持つWBA・Sウェルター級タイトルに挑戦したカルレはワンサイドの判定勝ちで王座を射止めた。カルレの多彩なパンチに、工藤は王者の意地でKOを免れた。安定政権を築くかに見えたが、5度目の防衛戦で2階級制覇を狙うレナードに9RTKO負けで無冠に。カルレは70年代の中量級屈指の技巧派チャンピオンだった。

【70年代ミドル級王座変遷】

67年4月、ニューヨークのMSGで当代きっての人気ボクサー2人が激突。世界ミドル級王者、エミール・グリフィスに前世界Sウェルター級王者のニノ・ベンベヌチが挑んだのだ。試合は激戦だった。2Rにベンベヌチが強烈な右ストレートでダウンを奪うと、グリフィスも4Rに左フックからの右ストレートでダウンを奪い返す。その後も一進一退の激しい打ち合いの末、3−0の判定でベンベヌチが第50代王者の座に就いた。9月のリターンマッチでは判定で雪辱を許したが、翌68年3月の第3戦で判定勝ちし王座に返り咲いた。4度の防衛に成功した後、70年11月、モンソンに敗れ王座を去った。

モンソンの登場は衝撃的だった。王者の地元ローマに乗り込んで来た1位挑戦者モンソンは“南米の怪物”と呼ばれていたが、世界的には無名に近かった。地元ローマでは31戦不敗と圧倒的な強さを誇るベンベヌチが、予想では有利だった。しかし、この日のチャレンジャーは計り知れない強さを発揮。スタートからスピーディなジャブで王者を圧倒。“ライフル”の異名をとる右ストレートも再三ヒットして、7Rには左フックでベンベヌチをダウン寸前に追い込む。12R、モンソンのライフルの右がヒットすると、ベンベヌチは撃たれたかのようにマットに崩れ落ち、10カウントを聞いた。
その後のモンソンは磐石の強さで防衛を重ねた。71年5月、ベンベヌチとのリマッチで3RKO勝ち。2度目の防衛戦では古豪グリフィスを14RにKO。74年2月、9度目の防衛戦では2階級制覇を狙うナポレスの挑戦も7RTKOで撃退した。

74年4月20日、WBCはモンソンがトップコンテンダーのバルデスの挑戦を拒否したとしてタイトルを剥奪。74年5月、空位となったWBC王座をバルデスとブリスコが争った。スリリングな打撃戦は互角の展開だったが、7Rバルデスの右ストレートがクリーンヒット、タフなブリスコは初のフル・カウントを聞かされた。鮮やかな戴冠を果たしたバルデスはWBCタイトルを4度守った後、モンソンとの統一戦で敗れた。

76年6月、モンテカルロで激突したWBA王者のモンソンとWBC王者バルデスの統一戦は、モンソンが14Rに右ストレート
でダウンを奪うなど文句のない判定で圧勝、再びタイトルを統一した。翌77年7月、バルデスとの再戦に判定勝ちで14度目の防衛に成功したモンソンは翌77年8月29日、「もうやることはなくなった」と王者のまま引退を表明。
77年11月、再びブリスコとの決定戦を戦ったバルデスが予想通り、判定勝ちでモンソンの後継者となった。しかし、翌78年4月の初防衛戦でウーゴ・コーロに予想外の判定負けを喫して王座を転落。

タイトルをアルゼンチンに取り戻したコーロは1位ロニー・ハリスを判定で破り、初防衛。2度目の防衛戦でバルデスを判定で返り討ちにしたが、この試合はWBCの「南アフリカ人の審判起用は認めない」との警告を無視して強行した為WBAのみの公認となった。79年6月、コーロはアンツォフェルモに僅差(2−1)の判定で敗れ、王座を失っている。アンツォフェルモは79年11月、ハグラーと引分けで初防衛に成功したが、80年3月、2度目の防衛戦でアラン・ミンターに判定で敗れた。

【70年代・統一ミドル級王者】

■ニノ・ベンベヌチ(イタリア・王座在位67年4月〜67年9月、68年3月〜70年11月)

70年代イタリアで絶大なる人気を誇ったのが、マカロニ・ウェスタンの主役を務めたこともあるニノ・ベンベヌチである。イタリアのアマチュア・ボクシング史上最高のボクサーと言われたニノはローマ・オリンピックLミドル級で金メダルを獲得、アリを抑えて最優秀ボクサーになるなど、199戦して敗れたのはただの1度きりだった。プロに転向後はマジンギをKOしてSウェルター級王座に就くが、金基洙に物議をかもす微妙な判定で敗れ、ミドル級に転向。グリフィスからタイトルを奪うも再戦で雪辱される。ラバーマッチで再び王座を奪回した後、5度目の防衛戦でモンソンに敗れ、引退した。
1938年生れ。90戦82勝(35KO)7敗1分。

■カルロス・モンソン (アルゼンチン・王座在位 70年11月7日〜77年8月返上)※74年4月WBC剥奪。76年6月再統一。

長身、長い手足と恵まれた体格、無類のタフネスとスタミナ、まさにボクシングをする為に生まれてきたような天才肌のボクサーだった。サンタフェの小村に12人兄弟の八男として生まれたモンソンは、16歳でライト級のアマチュアボクサーとしてスタート。5年間で87戦73勝8敗6分の好成績を残し、63年プロデビュー。国内、南米タイトルを獲得、64年に敗れたのを最後に連戦連勝を続け、70年11月ベンベヌチに挑戦。世界的には無名だったモンソンは不利の予想を覆して12RKOで王座に就いた。グリフィス、ブリスコ、ナポレスと防衛のテープが伸びるとともに、モンソンの評価も跳ね上がっていった。76年、WBC王者に君臨していたバルデスとの統一戦に勝って再び王座を統一。翌77年バルデスとの再戦に勝って14度目の防衛に成功した後、不敗のままリングを去った。
1942年生れ。102戦89勝(61KO)3敗9分1NC。

■ロドリゴ・バルデス(コロンビア・王座在位 77年11月5日〜78年4月22日)

アマチュアで30戦無敗、63年にプロに転向したバルデスは母国コロンビアで戦っていたが、ギル・クランシー・マネージャーに見出され、69年にニューヨークに渡る。クランシーの下で、ボブ・キャシディ、ドク・ホリディ、カーロス・マークスといった強豪を破り、実力を存分に発揮したバルデスは74年5月、前年小差で勝っているベニー・ブリスコと空位のタイトルを賭けて激突。7R、ブリスコに初の10カウントを聞かせて王座に就いた。その後、4度の防衛に成功した後、モンソンとの統一戦に敗れ、再戦でも敗退。モンソン引退後の統一王座を再びブリスコと争い、判定勝ちで返り咲いた。78年初防衛戦でコーロに敗れ無冠に。再戦でも勝てなかった。
1946年生れ。73戦63勝(41KO)8敗2分。

■ウーゴ・コーロ(アルゼンチン・王座在位 78年4月22日〜79年6月30日)

エステバン・ブストン出身。73年、プロデビューし、76年12月ナショナルタイトルを手に入れると、翌77年5月にはペルーの世界的強豪マルセロ・キノネスを判定に降し、南米王座も獲得。78年4月、不利の予想を覆してバルデスを3−0の判定で破り、ミドル級タイトルをアルゼンチンに取り戻した。初防衛戦でメキシコ五輪ライト級金メダリストでプロ27戦不敗の強豪、ロニー・ハリスに小差の判定勝ち。バルデスの挑戦も返り討ちにした後(WBAのみの公認)、3度目の防衛戦でアンツォフェルモに2−1の判定で敗れ無冠となった。
1953年生れ。60戦51勝(26KO)7敗2分。

■ビト・アンツォフェルモ(米国・王座在位 79年6月30日〜80年3月16日)

ラフ・ファイトを得意とし、流血戦はしょっちゅう。おかげで顔には本人も数え切れない程の無数の傷が残ったが、無類のタフネスで相手をねじ伏せていった。ビトはイタリアに生まれ、16歳の時に一家でアメリカに移住。ブルックリンでストリート・ファイトに明け暮れ、警官の勧めでボクシングを始めた。70年にニューヨーク・ゴールデン・グローブのウェルター級新人王になった後、71年にプロ転向。モーリス・ホープに敗れ欧州Jミドル級タイトルを失った後、ミドル級に転向。古豪ベニー・ブリスコに勝って、79年6月コーロ挑戦のチャンスを掴み判定勝ちで王座に就いた。初防衛戦では引き分けでハグラーを退けたが、2度目の防衛戦でアラン・ミンターに敗れた。
1953年生れ。59戦50勝(21KO)7敗2分。

【70年代・WBCミドル級王者】

■ロドリゴ・バルデス(コロンビア・王座在位 74年5月25日〜76年6月26日)

1946年生れ。73戦63勝(41KO)8敗2分。

【70年代・WBA・Sウェルター級王者】

■フレディ・リトル(米国・王座在位 69年3月17日〜70年7月9日)※統一王座

リトルは州立デラード大学を卒業し、ラスベガスの高校の体育教師を副業(本業?)とするインテリ・ボクサー。57年プロデビュー後、「強すぎて相手がいなかった」ため2度のブランクを作ったが、65年にカムバック。67年金基洙の持つWBA・Jミドル級タイトルに挑んだが僅差の判定負け。翌68年マジンギに挑み、5Rにダウンを奪うなど一方的に試合を進めながら王者の出血で不可解なノー・コンテストに。マジンギは再戦に応じずタイトルを剥奪され、69年3月スタン・ヘイワードとの決定戦に判定勝ちで王座へ。初防衛戦で来日、南久雄をあっさり2RKOに降し圧倒的な強さを見せつけた。1年後、34歳になったリトルは3度目の防衛戦でボッシに敗れている。
1936年生れ。57戦50勝(32KO)6敗1NC。

■カルメロ・ボッシ(イタリア・王座在位70年7月9日〜71年10月31日)※統一王座

ローマ五輪Lミドル級銀メダリストから61年プロ転向。65年ドミニコ・チベリアを破りイタリア・ウェルター級、67年にはジャン・ジョセリンを降し、欧州タイトルを獲得した。69年には時のチャンピオン、リトルにノンタイトルで9RKO負け。翌70年7月、タイトルを賭けた再戦で判定勝ちして王座に就いた。2度目の防衛戦で輪島のトリッキーなボクシングに僅差の判定負けを喫した。アマ出身らしい典型的なヨーロッパ・スタイルで、長いリーチを生かした左ジャブは「左肩に機関銃を埋め込んでいるのではないか」と形容されるほど早く鋭かった。
1939年生れ。51戦40勝(10KO)8敗3分。

■輪島功一(日本・王座在位 71年10月31日〜74年6月4日)※統一王座
25歳という遅いプロデビューながら、Jミドル級で3度王座に就いた異色のチャンピオン。68年度全日本ウェルター級新人王獲得後、翌69年日本Jミドル級王者に。12連勝(11KO)の余勢をかってWBC世界Jウェルター級チャンピオン、ペドロ・アデグにノンタイトルで挑んだが1RKO負け。71年東洋チャンピオン(世界Jミドル級7位)金沢英雄を2RKOに降し、ボッシ挑戦のチャンスを掴んだ。カエルとびなどトリッキーなボクシングで正統派の王者を幻惑、小差の判定勝ちで王座に就いた。6度防衛後、アルバラードに敗れるが、再戦で奪回。75年、柳済斗に7RKO負けで万事休したかに見えたが翌76年2月、15RKO勝ちで再び奇跡の奪回を演じ、日本中を感動させた。
1943年生れ。38戦31勝(25KO)6敗1分。

■オスカー・アルバラード(米国・王座在位74年6月4日〜75年1月21日)※統一王座

“ショットガン”のニックネームを持つ強打者でメキシコ系米国人。67年プロデビュー、ウェルター級のハードパンチャーとして鳴らしたが、技巧派に不覚を取ることもしばしばあった。74年6月、不利の予想を覆して輪島を最終回にKO、タイトル奪取に成功した。初防衛戦では龍反町のジャブに苦戦を強いられたが、2Rと5Rにダウンを奪い圧倒的なパワーの差で7RKO勝ちを収めた。75年1月、リターンマッチで輪島の驚くべき執念と巧みなボクシングに雪辱を許し、判定負けで王座を失った。
1948年生れ。71戦57勝(43KO)13敗1分。

■輪島功一(日本・王座在位 75年1月21日〜75年6月7日)※75年3月22日WBC王座剥奪

1943年生れ。38戦31勝(25KO)6敗1分。

■柳済斗(韓国・王座在位 75年6月7日〜76年2月17日)

アマチュアで経験を積んだ後、デビュー7戦目で元ウェルター級王者任炳模に敗れた以外は順調に白星を重ね、71年にはカシアス内藤をKOして東洋ミドル級王者となった。日本選手とは20戦以上して不敗(金沢英雄とは引き分け)の日本人キラーぶりを発揮、75年6月輪島を7RKOに降しタイトルを奪取した。初防衛戦では善戦の三迫将弘を5RにKO。76年2月、輪島とのリターンマッチに最終ラウンドKO負け。ドラマチックな結末に日本中が湧いた1戦だった。東洋王座は21度の防衛に成功(OPBFレコード)している。78年に引退後はジムを経営。
1948年生れ。55戦50勝(29KO)3敗2分。

■輪島功一(日本・王座在位 76年2月17日〜76年5月18日)

1943年生れ。38戦31勝(25KO)6敗1分。

■ホセ・デュラン(スペイン・王座在位 76年5月18日〜76年10月18日)

欧州スタイルのアウトボクサー。68年プロ入り。国内、欧州のタイトルを手にした後、75年5月、輪島の剥奪されたWBCの王座決定戦でオリベイラに判定負け。翌 76年5月、3度目の王座に就いた輪島の指名挑戦者カステリーニがケガで来日不能となり、急遽代役に抜擢。デュランは予想を覆して輪島を14RにKO。2度目の挑戦でWBA王座に就いた。76年10月の初防衛戦ではカステリーニに判定負けで王座を明け渡した。78年5月、王座復帰を目指してマッチョーリの持つWBC王座に挑んだが、5RKO負けに退いている。
1945年生れ。96戦73勝(29KO)13敗10分。

■ミゲル・アンヘル・カステリーニ(アルゼンチン・王座在位 76年10月18日〜77年3月6日)

アルゼンチンは108戦目で王座に就いたローチェをはじめ大器晩成型の王者が多い。カステリーニもまたデュランから王座を奪ったのが77戦目、29歳の時だった。ただ彼の場合、現役中にブランクを作ってヒッピー生活を送るなどエキセントリックな性格が災いし、マネージャーとも簡単にケンカ別れするタイプだったことが影響したと言われる。サンタローサの町にイタリア移民の子として生まれたカステリーニはアマで20勝2敗の成績を残し、65年プロ転向。76年10月、デュランに判定勝ちで王座に就いたが、初防衛戦でガソに敗れた。
1947年生れ。93戦73勝(49KO)8敗12分。

■エディ・ガソ(ニカラグア・王座在位 77年3月6日〜78年8月9日)

体格、パンチ、テクニックと全ての面で2流と評されながらも変則スタイルと粘り強さで、アルゲリョに次いでニカラグア2人目の世界王者となった。71年プロデビューし、中米王座を獲得後、77年3月カステリーニの持つWBA王座に挑戦、番狂わせの判定勝ちでタイトルを獲得した。元王者の輪島を11RKOに降し、初防衛に成功。柴田賢治、林載根といずれも敵地で小差の判定勝ち、都合3度の防衛に成功した。しぶとく防衛を続けたガソだったが、78年8月、工藤に小差の判定負けで王座を失った。
1950年生れ。58戦44勝(24KO)12敗2分。

■工藤政志(日本・王座在位 78年8月9日〜79年10月24日)

高校時代、アマレスでインターハイ3位の成績を収め、自衛隊体育学校へと進んだ。同じ自衛隊にいたロイヤル小林のプロ転向に触発され、ボクシングに転向。レスリング仕込みの強靭な肉体と東北人らしい粘り強いファイトで全日本ミドル級新人王、日本ミドル級タイトルとトントン拍子に勝ち進み、 78年8月地元秋田でガソに挑戦。王者の変則ファイトに苦しみながらも粘り強いワンツー攻撃で判定勝ち。日本選手の世界挑戦16連敗の記録をストップした。朱虎を判定に降した後、マヌエル・ゴンザレスに連勝、3度の防衛に成功したが、79年10月4度目の防衛戦でカルレに敗れた。
1951年生れ。24戦23勝(12KO)1敗。

■アユブ・カルレ(ウガンダ・王座在位 79年10月24日〜81年6月25日)

ウガンダ・カンパラ生まれのサウスポーの技巧派。12歳でアマのリングに立ち、74年世界選手権Lウェルター級で優勝。76年、デンマークでプロに転向した。ホセ・デュラン、カステリーニ、オベドら元王者をことごとく撃破。あまりの強さに世界王者が対戦を回避、WBAに提訴して工藤挑戦に漕ぎ付けた。79年10月、秋田で1級品の完成されたテクニックを披露、工藤にワンサイドの判定勝ちでタイトルを奪取した。4度の防衛に成功した後、81年6月、2階級制覇を狙うレナードに9RTKO負けで王座を失った。82年にはデビー・ムーアの持つWBA王座に挑んだが、10RTKO負けで復帰は成らなかった。
1954年生れ。50戦46勝(23KO)4敗。

【70年代・WBC・Sウェルター級王者】

■ミゲル・デ・オリベイラ(ブラジル・王座在位 75年5月10日〜75年11月13日)

固いガードと左右アッパーに破壊力を秘めた攻防完備のテクニシャン。アマチュアからプロに転向以来29連勝(19KO)の快進撃で世界1位に登り詰め、73年1月輪島に挑戦。初回にダウン気味のスリップ・ダウンを奪うなど有利に試合を進めたかにみえたが不運のドローに泣いた。翌74年2月の再戦では完敗。75年5月、輪島の剥奪されたWBCタイトルをホセ・デュランと争い、2度のダウンを奪って判定勝ち、3度目の挑戦でタイトルを手にした。初防衛戦ではオベドの強打に10R、2度のダウンを喫し、この回終了TKO負けで王座を滑り落ちた。
1948年生れ。48戦44勝(26KO)3敗1分。

■エリシャ・オベド(バハマ・王座在位75年11月13日〜76年6月18日)

バハマ・ナッソーの出身。本名はエベレット・ファーグソン。左でチャンスを窺い、ここという時に1発で試合を終わらせてしまう典型的なスラッガー。67年にプロ入り、アンジェロ・ダンディの指導で天性の強打に磨きをかけ、連戦連勝、KOの山を築いた。75年11月、パリでオリベイラを11RにストップしてWBC王座を獲得。トニー・ガードナー(2RKO)、シー・ロビンソン(判定)と2度の防衛に成功した後、76年6月3度目の防衛戦でダッゲに突然の棄権で10RTKO負け。78年3月マッチョーリに挑戦したが、7RKO負けで敗退、王座復帰は成らなかった。バハマ初の世界王者。
1952年生れ。110戦87勝(60KO)19敗4分。

■エックハルト・ダッゲ(西独・王座在位 76年6月18日〜77年8月6日)

76年6月、WBC王者オベドに挑戦したダッゲは4R終了間際にダウンを奪われるなど劣勢に立ちながらも5Rからボディ攻撃で反撃。スコアの上では王者が2〜3ポイントリードで迎えた10Rに、オベドは突如背を向けて試合を放棄。「急に視力を失って相手が見えなくなった」という王者の意外なリタイアーでダッゲはラッキーな戴冠を果たした。エミール・グリフィス(判定)、モーリス・ホープ(引分け)と2度の防衛に成功した後、77年8月3度目の防衛戦でマッチョーリに5RKOで敗れた。
1948年生れ。32戦26勝(16KO)5敗1分。

■ロッキー・マッチョーリ(イタリア・王座在位 77年8月6日〜79年3月4日)

イタリア生まれのオーストラリア育ち。169センチと短身ながらダイナミックなファイター・スタイルでイタリア、豪州両国で絶大な人気を誇った。17歳でメルボルンのリングに立ち、早くから輪島が王者時代に挑戦の話も出た。75年に母国イタリアに帰ってダッゲの持つWBCタイトル挑戦のチャンスを掴み、5RKO勝ちで王座に就いた。以後、Eオベド(7RKO)、Jデュラン(5RKO)の元王者を撃破、2度の防衛に成功した。79年3月、3度目の防衛戦でモーリス・ホープの強打にダウンを奪われた末ストップ負け、王座を失った。
1953年生れ。72戦63勝(50KO)7敗2分。

■モーリス・ホープ(英国・王座在位 79年3月4日〜81年5月23日)

1発よりも連打でストップを呼び込むタイプサウスポーのカウンター・パンチャー。アマ時代にはミュンヘン五輪に出場、4回戦で敗れた。73年にプロ・デビュー。同僚のジョン・ストレーシーの陰に隠れて地味な存在だったが、英国王座獲得後、ビト・アンツォフェルモに15RTKO勝ちで欧州王座を獲得し、注目された。77年WBC王者ダッゲ挑戦は不運な引分けに泣いたが、79年3月マッチョーリを8RTKOに降し、王座獲得。3度の防衛に成功したが、81年5月、4度目の防衛戦でベニテスに12RKO負けを喫した。
1951年生れ。33戦30勝(24KO)4敗1分。



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