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■70年代のLヘビー級 (2001.4.25更新)
▼Lヘビー級ベスト5
1位 ボブ・フォスター
2位 ビクトル・ガリンデス
3位 ジョン・コンテ
4位 マシュー・サアド・ムハマド
5位 マービン・ジョンソン
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70年代のLヘビー級は統一王者だったフォスター、AとC両方で王座に就いたジョンソンの他、WBA3人、WBC4人の計9人の王者が誕生している。国別では米国が4人、アルゼンチン2人、ベネズエラ、英国、ユーゴスラビアが各1人となっている。
いずれも個性派の王者が揃い、好試合も続出。70年代から80年代にかけてLヘビー級が最もホットな時代だった。
今回はベスト5までを選出してみた。
フォスターはアーチー・ムーアと並ぶこのクラスを代表する名王者。190センチのヒョロ長い体から放つパンチは強烈で、特に左フックの切れ味は抜群だった。ディック・タイガーを衝撃的なKOに降したのをはじめ、フランク・デポーラ、アンディ・ケンダル、マイク・クォーリー、クリス・フィネガンらの強豪をいずれも左フックで仕留めている。
ヘビー級の夢はスモーキン・ジョーの強打に断たれたが、Lヘビー級のタイトルは14度防衛(10KO)と、175ポンドでは抜群の強さを発揮した。
一時WBAのタイトルを剥奪されたが、統一戦でロンドンに2RKO勝ちして再び王座を統一。晩年はさすがに衰えが目立ち、ピエール・フォーリー(2判定勝ち)、ホルヘ・アマウダ(引き分け)と苦戦。74年、年齢的限界からタイトルを返上し、引退を声明した。(後にカムバック)
持ち前のタフネスと馬力で10度の防衛を果たしたガリンデスも70年代に強烈な印象を残したボクサーだ。レン・ハッチンスとの決定戦を13RKOで制し、以後ピエール・フォーリー、ホルヘ・アウマダ、リッチー・ケーテス、アルバロ・ロペス、エディ・グレゴリーと名だたる強豪とのタフ・ファイトを勝ち抜いた。中でも顔面をカットしてストップ寸前の流血戦を強いられたケーテスとの5度目の防衛戦は、激しい打ち合いの末、最終回劇的なKO勝ち。ベスト・バウトの1つに数えられる。
ロスマンにTKO負けした後、リターン・マッチで10RKO勝ち、執念の返り咲きを果たす。ここ1番で自力を発揮する「大試合に強い男」とも言われた。
80年10月、オートレースに出場したガリンデスはスピンを起こして棄権。徒歩でピットに戻ろうとしたところを暴走してきたレース車にはねられ、死亡した。
コンテは英国ボクシング・ニュース紙で「全盛期のナポレスを大きくしたような黒豹の動き」と評されたボクサー・ファイター。王座に就いてからは右拳の骨折でブランクもあった為、年1試合のペースで防衛戦を消化。ロニー・ベネット(5RKO)、
アルバロ・ロペス(判定 )、レン・ハッチンス(3RKO)と3度の防衛に成功、地味ながらも安定した実力を示した。英国ではアイドル的人気を誇り、テクニックにも定評のある実力派ボクサーだった。
王座を剥奪されてからはパルロフに微妙な判定負け。マシューには初戦で判定負け、再戦では4RKOの憂き目に。自信家のコンテはマシューにKOされた夜、ヤケ酒を飲んで、パンツ1枚の姿でホテル内を暴れまわったという。
常に激戦を演じたマシューも忘れられないボクサーの1人。スロースターターとして知られ、数々の逆転KOで名を馳せた。ジョンソンに挑んだ1戦も序盤は一方的に打ちまくられながら中盤から猛反撃、8RKOで見事な戴冠を果たした。アルバロ・ヤキー・ロペスを相手にした4度目の防衛戦も激戦だった。8Rにダウンを取られても文句が言えない程、一方的に打たれたマシューは10回から猛反撃に出て、14Rに4度のダウンを奪って決着をつけた。
フィラデルフィアは昔からボクシングの盛んなところとして知られ、マシューはベニー・ブリスコ(元世界ミドル級1位)やジミー・ヤング(元世界ヘビー級1位)、ロイ・ウィリアムスらとのスパーリングでディフェンス技術を磨いた。激しい打ち合いを得意とするマシューだが、巧みなアウト・ボクシングも披露するなど技術的な裏づけもしっかりとしたボクサーだった。
ジョンソンは強打とテクニックを併せ持つ好戦的なサウスポー。元アマチュアの名選手で、ミュンヘン五輪ミドル級で銅メダルを獲得。ホームタウンのインディアナポリスで73年にプロデビューするが、年3試合ペースのローカル・ファイターに過ぎなかった。77年にフィラデルフィアのアーノルド・ワイスとマネージメント契約を結んでからチャンスに恵まれるようになった。
パルロフを10RTKOに降し王座に就いたが、宿敵マシューにKO負け。7ヵ月後、ガリンデスを破ってWBA王座に返り咲き。このタイトルもエディ・グレゴリーに奪われたが、86年2月レスリー・スチュワートと空位のWBA王座を争い、7R負傷TKO勝ちで3度目の王座に就いている。
【70年代Lヘビー級王座変遷】
“偉大なるナイジェリアン”ディック・タイガーがミドル級に続いてLヘビー級を制覇したのが、66年12月。MSGでホセ・トーレスを判定に降し、37歳にして第29代の王座に就いた。トーレスとのリターンマッチに勝ち、ロジャー・ラウズをKOして2度の防衛に成功したタイガーの王座は安泰と見られていた。
しかし、68年5月「不倒の虎」と言われた王者はMSGでボブ・フォスターの強打に4RKO負け。190センチと長身のフォスターはヘビー級進出を目論み挫折、Lヘビー級に専念してからは抜群の強さを発揮していた。フランク・デポーラ、アンディ・ケンダルら強豪を相手に4連続KO防衛と勢いに乗るフォスターは70年11月、再びヘビー級への夢を抱き、フレイジャーに挑戦。しかし、フレイジャーの左フックの強打を浴びて2RKO負け。2年後、アリにも8RKO負けでヘビー級進出の夢は断たれた。
WBAはフォスターが期限内に防衛戦を行なわないとの理由で王座を剥奪、71年2月、カラカスでジミー・デュプレーを6RKOに降したビセンテ・ロンドンを新王者に認定した。ロンドンは4度の防衛(3KO)に成功したが、72年4月のフォスターとの統一戦ではあっさり2RでKOされてしまった。
74年9月16日、フォスターがタイトルを返上して引退を発表すると、WBAとWBCはそれぞれ決定戦を行い、以後王者並立の時代が続く。WBAの王座には74年12月、レン・ハッチンスを13RKOに降したビクトル・ガリンデスが君臨。ブル・ファイターの新王者はタフネスとスタミナを武器に10度防衛の記録を残した。78年9月、ニューオリンズでスピンクスVSアリのアンダー・カードでマイク・ロスマンに13Rストップによる敗北で王座を追われた。
“ビリー・コーン2世”として期待されたロスマンも初防衛に成功した後、ガリンデスとのリ・マッチ(79年4月)で9RKO負けして短命に終わった。王座に復帰したガリンデスも79年11月、初防衛戦でマービン・ジョンソンに11RKO負け。ジョンソンは同年4月にWBCタイトルを失ったばかりだったが、WBAで見事王座に返り咲いた。80年3月、ジョンソンは初防衛戦で強打のエディ・グレゴリーに11RTKO負けを喫した。
フォスター返上後のWBCは74年10月、ホルヘ・アウマダを判定に降したジョン・コンテが新王座に就いた。実力者のコンテは3度の防衛に成功するが、クェリョの挑戦を拒否した為、タイトルを剥奪される。
77年5月ミゲル・アンヘル・クェリョとジェシー・バーネットの間で決定戦が行なわれ、クェリョがピンチヒッターのバーネットを9RKOに降し、新王者となった。78年1月、クェリョは初防衛戦でミュンヘン五輪金メダリストのメート・パルロフに9RKO負け。リング上で大の字となったクェリョがしばらく起き上がれない程の痛烈なKO劇だった。
パルロフは初防衛戦で元王者のジョン・コンテを2−1の判定で退けたが、78年12月、2度目の防衛戦でマービン・ジョンソンに10RKO負けを喫した。79年4月、マシュー・フランクリンがジョンソンに挑戦、激戦の末8RKOで新王者となった。試合後マシュー・サアド・ムハマドに改名、初防衛戦でコンテに判定勝ち。再戦でコンテを4RKOに降して以後7連続KO防衛を続けたが、81年12月、9度目の防衛戦でドワイト・ブラクストンにスロー・スターターの欠点を突かれ、10RKOで
完敗した。
【70年代・WBA世界Lヘビー級王者】
■ビセンテ・ポール・ロンドン(ベネズエラ・王座在位71年2月27日〜72年4月7日)
ベネズエラ東部の小さな町サンホセ・デ・ロス・リオスに生まれたロンドンは兵役を終えた後、首都カラカスに出てヒマつぶしにジムで練習していたところをトレーナーに見初められてボクシングを始めた。アマで24連勝を記録して65年プロ入り。68年からプエルトリコのサンファンに居を構えて米国に進出。モハメド・アリのスパーリング・パートナーを務めるなどメキメキ腕を上げた。71年2月、空位のWBA王座をジミー・デュプレーと争い、2Rにダウンを喫したものの6R逆転KO勝ちで新王者となった。カルロス・エルナンデス以来のベネズエラ史上2人目の世界王者誕生に、その夜の国民の騒ぎは大変なものだったという。4度の防衛に成功したロンドンだったが、72年4月WBC王者フォスターとの統一戦に2RKO負けでタイトルを失った。
1944年生れ。56戦40勝(23KO)15敗1分。
■ボブ・フォスター (米国・王座在位 72年4月7日〜74年9月16日返上)
“黒いカマキリ”と異名された190センチの長身から放つ左ジャブ、左フックは強烈で、とりわけ左フックは数々の豪快なKOシーンを演出した。61年プロデビュー。ヘビー級進出を計るも、アーニー・テレル、ゾラ・フォーリーに敗れるなど挫折。Lヘビー級に的を絞ってからは好調で、68年5月、“不倒の男”ディック・タイガーに初のテン・カウントを聞かせて頂点に駆け上がった。フランク・デポーラ、アンディ・ケンダル、マイク・クォーリーらクセ者を倒し、4度の防衛を全てKOで片付けたフォスターは70年11月、フレイジャーのヘビー級タイトルに挑んだが、あえなく2RKO負け。2年後、アリとも対戦したが、8RKO負けとヘビー級の壁に泣いた。Lヘビー級のタイトルは14度防衛後、74年に返上し引退。翌年カムバックしたが、5連勝(4KO)した後、78年にワサジャ、ハゼルトンと連続KO負けを喫し、今度は本当に引退した。
1942年生れ。65戦56勝(46KO)8敗1分。
■ビクトル・ガリンデス(アルゼンチン・王座在位 74年12月7日〜78年9月15日)
“南米の猛牛”と呼ばれたガリンデスは、典型的なブル・ファイターで1発のパンチはなかったが、しつこい連打で相手をねじ伏せた。デビュー3年目までは勝ったり負けたりの平凡なボクサーだったが、72年から78年4月にノンタイトルでラモン・セレズエラに判定で不覚を取るまで37連勝(20KO)を記録した。74年12月、フォスターが返上したタイトルをレン・ハッチンスと争い、13RKO勝ちで王座に就いた。5度目の防衛戦では米国の強豪リッチー・ケーテスに流血戦を強いられたが、最終Rに劇的なKO勝ちを収めた。10度守ったタイトルはロスマンに奪われたが、79年4月のリターンマッチで10RTKO勝ちで奪回。11月、初防衛戦でマービン・ジョンソンに11RKO負けを喫した。80年10月、自動車レースの事故で死亡。31歳の若さだった。
1948年生れ。68戦55勝(34KO)9敗4分。
■マイク・ロスマン(米国・王座在位 78年9月15日〜79年4月14日)
フィラデルフィア生まれの純粋なユダヤ人で“ジュディッシュ・ボンバー”の異名を持つスマートなボクサー・パンチャー。アマで20勝3敗の成績を残し、73年ミドル級でプロデビュー。いきなり7連続KOを含め21連勝したが、マイク・ニクソンに判定で初黒星。再戦でKO勝ちした後、Lヘビー級に転じ、マイク・クォーリーと2勝(1KO)1敗。トニー・リカタ、アルバロ・ロペスには敗れたが、ロニー・ベネットを2RKOに破り再浮上。78年9月、ガリンデスに挑戦、10度防衛の王者を13Rにストップする番狂わせを演じて、Lヘビー級では62年のWパストラーノ以来16年ぶりのアメリカの白人王者となった。79年4月、2度目の防衛戦で前王者ガリンデスに10RTKOで雪辱を許し、王座を失った。
1956年生れ。54戦44勝(27KO)7敗3分。
■ビクトル・ガリンデス(アルゼンチン・王座在位 79年4月14日〜79年11月30日)
1948年生れ。68戦55勝(34KO)9敗4分。
■マービン・ジョンソン(米国・王座在位 79年11月30日〜80年3月31日)
インディアナ州インディアナポリス出身。72年、パルロフがLヘビー級金メダルに輝いたミュンヘン五輪にミドル級で出場、銅メダルを獲得している。アマ戦績は65勝5敗。73年にプロ転向し、6連続KOをマーク。77年、北米王座挑戦ではマシュー・フランクリンに12R初のKO負けを喫したが、すぐに立ち直り、強打のビル・ダグラス(ジェームスの父親)に負傷TKO勝ち。ロッテ・ムワレには判定負けしたが、際どい判定だったと言われている。78年12月、パルロフを10RTKOに降し、WBC王座に就いたが、初防衛戦でマシュー・サアドに敗れた。79年11月、ガリンデスを11RKOに破りWBA王座に返り咲き。このタイトルも初防衛戦でエディ・グレゴリーに11RTKO負け。86年2月にはWBA王座決定戦でスチュワートに勝って3度目の王座にも就いている。
1954年生れ。49戦43勝(35KO)6敗。
【70年代・WBC世界Lヘビー級王者】
■ボブ・フォスター(米国・王座在位 68年5月24日〜74年9月16日返上)
1942年生れ。65戦56勝(46KO)8敗1分。
■ジョン・コンテ(英国・王座在位 74年10月1日〜77年5月剥奪)
ビートルズと同じリバプール出身。黒人の父と白人の母との間に生まれた混血。技巧派のボクサー・ファイターでハンサムな容貌と相まって英国ではアイドル的人気があった。20歳でプロに転向、英連邦、欧州のタイトルを手にした後、74年10月アウマダを判定に降して空位のWBC王座に就いた。ロニー・ベネット(5RKO)、アルバロ・ロペス(判定)
、レン・ハッチンス(3RKO)と3度防衛後、クェリョの挑戦を拒否した為、タイトルを剥奪される。78年6月、パルロフ挑戦は2−1の僅差で判定負けで王座返り咲きはならず。79年8月マシュー・サアドに挑戦したが、判定負け。しかし、王者が禁止されている止血剤を使用した為WBCが再戦を命じ、80年3月に両者は再度グローブを交わすも、マシューの強打の前に4Rマットに沈んだ。
1951年生れ。39戦34勝(24KO)4敗1分。
■ミゲル・アンヘル・クェリョ(アルゼンチン・王座在位 77年5月21日〜78年1月7日)
モンソンと同じサンタフェ生まれ。72年ミュンヘン五輪Lヘビー級に出場、2度勝ち進んだが、準々決勝で棄権。ちなみに彼がその時戦うことになっていたのは、金メダルを獲得し、後に対戦するパルロフだった。翌73年にプロ入り、75年にはラウル・ロヨラを4RTKOに破り、空位のアルゼンチン王座に就くなど19連勝(18KO)でトップ・コンテンダーに踊り出た。77年5月、空位のWBC王座をジェシー・バーネットと争い、9RKOで王座に就いた。21連勝(20KO)を記録したハード・パンチャーのクェリョだったが、意外な短命に終わる。78年1月、初防衛戦でミュンヘンで対戦するはずだったパルロフに痛烈なKO負けでプロ初黒星を喫し、王座転落。この試合がラスト・ファイトとなった。
1946年生れ。22戦21勝(20KO)1敗。
■メート・パルロフ(ユーゴスラビア・王座在位 78年1月7日〜78年12月2日)
ヘビー級並みの体格とテクニックを武器に共産圏初の世界王者となったサウスポーのボクサー・タイプ。72年ミュンヘン・オリンピックのLヘビー級で金メダルを獲得後、75年プロ入り。12連勝をマークしたが、13戦目に後の世界王者マシュー・フランクリンに8R判定負け。再戦でも分の悪い引分けだった。その間に欧州タイトルを獲得し、3度防衛後、78年1月にクェリョに挑戦。9R、左ストレート1発で王者をKO、史上初の共産圏世界王者が誕生した。初防衛戦では元王者のジョン・コンテを退けたが、2度目の防衛戦でマービン・ジョンソンにKO負けした。その後は新設されたクルーザー級でマービン・カメルと初代王座を争い、初戦で引き分けた後、再戦で判定負けしている。
1948年生れ。29戦24勝(12KO)3敗2分。
■マービン・ジョンソン(米国・王座在位 78年12月2日〜79年4月22日)
1954年生れ。49戦43勝(35KO)6敗。
■マシュー・サアド・ムハマド(米国・王座在位 79年4月22日〜81年12月19日)
5歳の時、フィラデルフィアにあるベンジャミン・フランクリン・パークで置き去りにされ、修道院に収容。聖マシューと発見された公園からマシュー・フランクリンと名づけられた。やがて里子に出され、ストリート・ファイターとして名を売った。ある日、ナイフを所持しているのを見つけられ、留置場にぶち込まれたマシューはそこでボクシングと出会う。約1年の拘留期間を終えて、74年1月にプロデビュー。76年5月、ミュンヘン五輪金メダリスト、パルロフを判定に降して頭角を現したマシューは、77年7月空位の北米王座をマービン・ジョンソンと争い、激戦の末12RKO勝ち。79年4月今度はジョンソンの持つWBC王座を賭けて再戦。両者血みどろの死闘となり、マシューが8RKOでタイトルを奪取した。試合後、モスリムのマシュー・サアド・ムハマドに改名。8度の防衛に成功した後、81年12月ドワイト・ブラクストンに10RTKO負けで王座を失った。82年8月の再戦でも6RKO負け。その後は勝ち負けを繰り返しながら92年まで現役を続けた。
1954年生れ。58戦39勝(29KO)16敗3分。
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