▼ 70年代特集 【級】ヘビー
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■70年代のヘビー級「4強時代」
(2001.5.3更新)

 ▼ヘビー級4強

 1位
   モハメド・アリ
 2位   ジョージ・フォアマン
 3位   ジョー・フレイジャー
 4位   ケン・ノートン

70年代のヘビー級王座はエリス(WBA)、フレイジャー、フォアマン、アリ、スピンクス、テート(WBA)ノートン(WBC)、ホームズ(WBC)の総勢8人が君臨、全て米国の黒人ボクサーによって占められている。巨星アリを中心にフレイジャー、フォアマン、ノートンと4人の強豪がしのぎを削るヘビー級の黄金時代でもあった。そこで今回はこの4人の対戦を時間を追って振り返ってみた。

1971年3月8日、3年間のブランクから復帰したアリが、フレイジャーに挑んだ1戦は世界的な関心を呼んだ。26戦全勝(23KO)のフレイジャーと31戦全勝(25KO)のアリ。無敗同士の世紀の一戦は“ザ・ファイト”と銘打たれ、ニューヨークのMSGでゴングが鳴った。
フレイジャーはクラウチング・スタイルから左右フックを振るって前進。アリは左ジャブ、ワンツーで応戦するが、ブランクは大きく、かつての切れを失っていた。フレイジャーは11Rにアリをダウン寸前に追い込み、最終ラウンドには左フックで決定的なダウンを奪い、文句のない判定で圧勝した。世界中に衝撃を与えた“アリ神話”に終止符が打たれた瞬間だった。

アリを破り、キャリアのピークに達した感のあるフレイジャーにフォアマンが挑んだのは73年1月22日。フォアアンはこの日まで37戦全勝(34KO)のレコードを誇っていたが、Jシュバロ以外に著名選手との対戦もなく実力は未知数と言われていた。
試合は初回から挑戦者の豪腕が唸り、フレイジャーは瞬く間に3度のダウンを喫した。2Rにも容赦なく左右フック、スウィングを浴びたフレイジャーは宙に飛ぶダウンで、この回3度ダウンを喫してストップされた。キングストンの惨劇とも形容された戦慄のKOシーンだった。フレイジャーはアリ戦で燃え尽きてしまった感もあった。

フレイジャーVSフォアマン戦の2ヵ月後の73年3月31日、、アリがノートンに不覚の判定負けを喫する番狂わせが起きた。フレイジャー戦後、10連勝(6KO)をマークして復活の兆しを見せているアリにとっては調整試合の一つと見られたが、ノートンはパワフルな左右フックでアリを圧倒、12R判定勝ちを収めた。試合後にはアリのアゴが骨折していたことも判明して、ショックに追い打ちをかけた。半年後の9月10日に両者は再戦、接戦となったが微妙な判定はアリに上がった。

74年1月28日、フォアマンに王座を追われたフレイジャーとアリが、3年の時を経て場所も同じMSGで再戦。アリは時に全盛期を思わせるフットワークと巧みなクリンチワークを駆使してフレイジャーを圧倒し、12R判定勝ちを収め雪辱を果たした。宿命のライバルとのサバイバル・マッチに勝ち抜いたアリは、フォアマン挑戦へと大きく前進した。

74年3月26日、フォアマンの王座に「アリの顎を叩き割った男」として注目を集めたノートンが挑んだ。フレイジャーを2R、ローマンを初回でKOと、圧倒的なパワーを誇る王者の前にノートンは「蛇に睨まれた蛙」のように萎縮。終始プレッシャーをかけられ、後退を余儀なくされた挑戦者は、何も出来ないうちに2R、左フックでKOされてしまった。

74年10月30日、南アフリカ・ザイールのキンシャサで史上最強とも言われた怪物フォアマンに32歳のアリが挑戦。予想はアリが圧倒的に不利だったが、試合は意外な展開となった。
フットワークを使うと見られたアリが、初回からロープに釘付けになってフォアマンの強打を浴び続けた。後にロープ・ア・ドープと名づけられたアリの頭脳的な作戦だった。打ち疲れでスタミナを失ったフォアマンの一瞬の隙を突いたアリは、8Rに強烈なワンツーでダウンを奪う。一回転して倒れこんだフォアマンは辛うじて立ち上がったが、レフェリーはカウント・アウト。アリ伝説の第2章の始まりでもあった。

アリとフレイジャーの第3戦はフィリピンのマニラで75年10月1日、王座に返り咲いたアリの4度目の防衛戦として行なわれた。タイトル奪回と打倒アリに賭けるフレイジャーの執念は凄まじく、いつものスモーキン・スタイルで飽くなき前進を続けた。アリ得意の“ロープ・ア・ドープ”もフレイジャーには通じず、試合は激しい打ち合いとなった。終盤に入ってアリのワンツーがよく決まり出す。フレイジャーは打たれても尚、前進を止めなかったが、14R終了後、エディ・ファッチ・トレーナーが棄権を申し出てアリのTKO勝ちとなった。勝利の瞬間、疲労困ぱいのアリがキャンバスに倒れ込んだのが印象に残る。

76年6月15日、フォアマンとフレイジャーによる元世界王者同士の再戦が、ニューヨーク州ユニオンデールで行なわれた。フレイジャーは自分からは出て行かず、フォアマンの攻撃に対応して迎え打つ戦法を取った。しかし、この日のフォアマンは好調で5Rに2度のダウンを奪い、KO勝ち。またしてもフォアマンの軍門にくだったフレイジャーは引退を表明した。(後にカムバック)

76年9月28日、世界ヘビー級王者のアリは過去1勝1敗のノートンとニューヨークのヤンキー・スタジアムで3度目の対戦を行なった。アリは足を止めて、ノートンと打ち合った。1,2Rはアリのペースだったが、3Rからノートンも反撃、6Rには強烈なボディ・ブローでアリの体を折った。その後も一進一退の打ち合いが続き、ノートンがやや優勢に試合を進めたかに見えたが、判定はアリに挙がった。“アリ・デシジョン”に泣いたノートンは「判定を盗まれた」と涙ながらに訴えた。

それぞれの対戦成績は、アリが通算5勝(2KO)2敗(フレイジャー戦2勝1KO1敗、ノートン戦2勝1敗、フォアマン戦1勝1KO)。フォアマンは3勝3KO1敗(フレイジャー戦2勝2KO、ノートン戦1勝1KO、アリ戦1敗)。フレイジャ−は1勝4敗(アリ戦1勝2敗、フォアマン戦2敗)。ノートンは1勝3敗。(アリ戦1勝2敗、フォアマン戦1敗)となっている。フレイジャーとノートンの対戦だけは何故か実現しなかった。

【70年代ヘビー級王座変遷】

70年2月16日、ニューヨークのMSGでWBA公認のジミー・エリスとニューヨーク州公認のジョー・フレイジャーによる“真の王者”を決める世界ヘビー級王座統一戦が挙行された。フレイジャーはパワーにまかせて押しまくる“ノン・ストップ戦法”でエリスを圧倒し、4R得意の左フックでダウンを奪った。終了間際に再び左フックでダウンを奪うとエリスは仰向けに伸びてしまった。カウント5で4R終了のゴングがなり、9でようやく立ったが、5R開始のゴングに椅子を立てず、フレイジャーのKO勝ちとなった。名実ともに世界一となったフレイジャーはフォスター、アリ、ダニエルズ、スタンダーと4度の防衛に成功した。

73年1月、ジャマイカのキングストンでフォアマンがフレイジャーに計6度のダウンを与え、戦慄的な2RKO勝ちで王座に就いた。フォアマンはローマンを初回でKO、ノートンにも2RにKO勝ちと圧倒的な強さを誇ったが、74年10月、3度目の防衛戦でアリに8RKO負けを喫してタイトルを失った。
王座に返り咲いたアリは75,76、年ともに4度とハイペースで防衛戦をこなし、77年の2度を加え10度の防衛に成功した。しかし、晩年のアリはたびたびラッキーな”アリ・デシジョン”に救われるなど衰えは隠せず、78年2月、伏兵のレオン・スピンクスに番狂わせの判定負けを喫した。

WBCは78年3月、ノートンとの指名試合を拒否してアリとの再戦を決めたスピンクスのタイトルを剥奪、ノートンを王者に認定した。77年11月、世界1位のノートンは挑戦者決定戦で2位のヤングに判定勝ちを収めており、この試合が事実上の決定戦となった。ノートンは78年6月の初防衛戦でホームズに僅差の判定で敗れ、以後WBCはホームズの時代が続いた。

一方、WBAのみの公認となったスピンクスは78年9月のアリとの再戦に敗れ、王座を転落。79年9月、アリは引退を表明してタイトルを返上。空位となったWBAタイトルは79年10月、カリー・クノーツェに8RKO勝ちしたテートと、スピンクスを初回KOに降したゲリー・コーツィーの間で争われ、テートが判定勝ちで王座に就いた。テートは翌80年3月、初防衛戦でマイク・ウィーバーに最終ラウンド逆転KO負けで王座を失っている。

【70年代・WBA世界ヘビー級王者】

■ジミー・エリス(米国・王座在位68年4月27日〜70年2月16日)

アリと同じケンタッキー州ルイビル出身。15歳でボクシングを始め、アリとはアマで1勝1敗の成績を残している。61年にミドル級でデビューしたが、ルビン・“ハリケーン”・カーター、ドン・フルマーに敗れるなど、無能なマネージャーの下で泣かず飛ばずだった。やがてアリのスパーリング・パートナーを務めるようになり、エリスに目をつけたアンジェロ・ダンディがマネジャーになった。ダンディの助言でミドル級からLヘビー、ヘビー級へと転じたエリスは連戦連勝の好調を続けた。

67年にアリが剥奪されて空位となっていたWBAヘビー級王座決定トーナメントに出場。大方の予想を裏切ってレオチス・マーチン(9RKO)、オスカー・ボナベナ(判定)といった強豪を連破。68年4月の決定戦でジェリー・クォーリーを小差の判定で破り、王座に就いた。フロイド・パターソンに判定勝ちで初防衛に成功した後、70年2月ニューヨーク州公認ヘビー級王者フレイジャーとの統一戦で5RKO負け。71年にはアリに12RKO負けを喫した。
基本に忠実な技巧派だったが、ボクシングスタイルはアリのコピーと言われ、偉大な王者の陰に隠れた地味な存在だった。
1940年生れ。55戦42勝(24KO)12敗1分。

■ジョー・フレイジャー (米国・王座在位 70年2月16日〜73年1月22日)※70年2月WBA・NYAC王座統一

米ノースカロライナ州ボーフォート生まれ。16歳で結婚、フィラデルフィアに移り、アマで62年から3年連続ゴールデン・グローブ賞を獲得。東京オリンピックの米国代表決定戦でバスター・マシスに敗れるが、補欠で来日。マシスの手の負傷でピンチ・ヒッターとして出場、金メダルを獲得してしまった。

65年8月、ヤンシー・ダーハム・マネージャーの下でプロ入りしたフレイジャーはいきなり11連続KO勝ち。68年にはアマ時代の宿敵マシスと空位のニューヨーク州公認王座を争い、11RKO勝ちで王座に就いた。4度(3KO)の防衛に成功した後、70年2月、WBA王者ジミー・エリスを5Rにストップしてタイトルを統一、名実ともに世界チャンピオンの座に就いた。同年11月、Lヘビー級からの侵略者ボブ・フォスターを左フックで2RKOに屠り、71年3月にはモハメド・アリとの“世紀の一戦”にダウンを与えて判定勝ち。統一タイトルは4度の防衛(3KO)に成功。73年1月、フォアマンの圧倒的なパワーの前に2RKO負けを喫し、タイトルを失った。

75年10月、アリとの3度目の対決では熱戦を展開、14Rに精魂尽き果て敗れた。機関車のように相手に迫る様から“スモーキン・ジョー”と呼ばれ、クラウチング・スタイルから繰り出される左フックは強烈だった。81年、37歳でカムバックし、ジャンボ・カミングスと引き分けたのがラスト・ファイトとなった。
1944年生れ。37戦32勝(27KO)4敗1分。

■ジョージ・フォアマン(米国・王座在位 73年1月22日〜74年10月30日)※統一王者

米テキサス州マーシャル生まれ。貧困な7人兄弟の大家族に生まれたフォアマンは、兄弟の誰とも顔が似ておらず、つまはじきにされたという。後に分かったことだが、父親のJ・Dフォアマンは実は養父で、実の父親とはアリ戦後初めて会った。
スラム街での少年時代は「怒りと憎しみ」でワルの道へと進んだ。カリフォルニア州の職業訓練部隊でボクシングと出会ったフォアマンは68年東京オリンピックで見事金メダルを獲得し、翌69年プロ入り。マネージャーのDサドラーの勝てる相手を選び、自信をつけさせる“サドラー方式”で4年間に37連勝(34KO)を記録。73年1月、ジャマイカのリングでフレイジャーを2Rに粉砕して世界ヘビー級チャンピオンとなった。

東京でローマンを初回でKO、ノートンにも2RにKO勝ちして連勝記録も40まで伸びたが、74年10月、アリの頭脳的なボクシングに敗れ、3度目の防衛に失敗した。
77年ジミー・ヤングに判定負け、引退を表明してキリスト教の伝道師となったが、10年後の87年に「もう1度世界チャンピオンになる」とカムバック。91年4月のホリフィールド挑戦は判定負けだったが、善戦して大いに株を上げた。そして94年11月、マイケル・モーラーの持つWBA&IBF王座に挑戦、10R右フック一発でKO勝ち。20年ぶり、45歳9ヶ月での王座返り咲きで世界中を驚かせた。
1949年生れ。81戦76勝(68KO)5敗。

■モハメド・アリ(米国・王座在位 74年10月30日〜78年2月15日)※統一王者

本名カシアス・マーセラス・クレイ。米ケンタッキー州ルイビル出身。アマチュアでは2年連続AAUのLヘビー級タイトルを獲得、60年ローマ・オリンピックでもLヘビー級で金メダリストとなり、同年10月アンジェロ・ダンディをマネージャーに迎えプロ・デビュー。
派手な言動とKO予告で人気を集め、「ほら吹きクレイ」の仇名がついた。

アーチー・ムーア、ダグ・ジョーンズらを倒して上位に進出したアリは64年2月、世界ヘビー級王者ソニー・リストンに挑戦。1−7の圧倒的不利の予想を覆し、7RTKOでリストンを降し、王座に就いた。再戦でも初回KO勝ちしたのをはじめ9度の防衛に成功したが、67年徴兵拒否を理由にタイトルとライセンスを剥奪された。

70年にカムバックし、クォーリー、ボナベナを連破したアリは71年3月、フレイジャーの持つ世界ヘビー級王座に挑戦したが、ダウンを奪われ判定負けを喫した。74年10月、フレイジャーを粉砕して怪物的な強さを誇ったフォアマンに挑んだアリは、“ロープ・ア・ドープ”などの巧みな戦術で8RKO勝ち、奇跡の復活を果たした。フレイジャー、ノートンらを相手にタイトルを10度守ったが、78年2月、伏兵スピンクスに判定負け。9月のリターンマッチでは判定で雪辱して、3度目の王座に就いた。王者のまま引退したが、2年後にカムバック。ホームズのWBC王座に挑戦するも、10RKOで敗れている。
1942年生れ。61戦56勝(37KO)5敗。

■レオン・スピンクス(米国・王座在位 78年2月15日〜78年9月15日)※78年3月WBC王座剥奪

ミズーリー州セントルイスに7人兄弟の長兄として生まれる。13歳の時、バンタム級で初めてアマのリングに立ち、76年モントリオール・オリンピックではLヘビー級で金メダルを獲得。ミドル級で優勝した弟レオンと兄弟で金メダリストとなって話題になった。スピンクス兄弟はトップ・ランク社と契約し、77年にプロデビュー。フィラデルフィアのサム・ソロモン・トレーナーの下で、引退生活を送っていたフレイジャーともスパーリング。フレイジャー直伝のイン・ファイトを学んだスピンクスは5連続KOと順調に白星を重ねた。元ホワイト・ホープのスコット・ルドーとは引き分けたが、スピンクスに気の毒な判定だったと言われる。
イタリア王者のアルフィオ・リゲッティを破ったスピンクスは78年2月、アリの持つ世界ヘビー級王座挑戦のチャンスを掴んだ。試合は史上に残る大番狂わせで、スピンクスが判定勝ちで王座に就いた。9月の再戦では小差の判定で敗れ、アリに雪辱を許した。私生活ではトラブル続きで、79年にはWBAのエリミネーション・バトルでゲリー・コーツィに初回KO負け。ホームズのWBCタイトル挑戦(81年)も3RKOで敗れた。
1953年生れ。46戦26勝(14KO)17敗3分。

■モハメド・アリ(米国・王座在位 78年9月15日〜79年9月返上)

■ジョン・テート(米国・王座在位 79年10月20日〜80年3月31日)

アンカソンー州ウェイトメンフィス生まれ。19歳で初めてアマのリングに立ったテートは、その後の僅か18ヶ月間で51勝(31KO)7敗の成績を残した。76年モントリオール・オリンピックに米国ヘビー級代表として出場、2試合勝ち抜いた後、準決勝でテオフィロ・ステベンソンに初回で倒され、銅メダルに終わった。

77年にプロ転向、翌年世界ランカーだったジョニー・ブードローを判定で破り、初めて世界10位にランクされた。元ホワイト・ホープのデュアン・ボビックを初回KOに降すなど、順調に白星を重ねたテートは79年、アリが返上したWBAタイトルのエリミネーション・トーナメントに出場。準決勝でカリー・クノーツェに8RKO勝ちで決定戦へと駒を進め、79年10月にゲリー・コーツィーに文句のない判定勝ちを収め、王座に就いた。

初防衛戦では安全パイと見られたウィーバーにアウトボクシングで一方的にリードしながら、最終ラウンドににウィーバーの左フック一発で逆転KO負け。テートが試合をしている間に自宅に泥棒が入り、15万ドル相当の宝石類を盗まれるなど踏んだり蹴ったりだった。基本に忠実なスピーディなアウト・ボクシングが身上だったが、そのスタイルはアリに酷似していた。
1955年生れ。37戦34勝(23KO)3敗。

【70年代・WBC世界ヘビー級王者】

■ケン・ノートン(米国・王座在位 78年3月17日認定〜78年6月9日)

イリノイ州ジャクソンビル出身。学生時代のノートンはフットボール、陸上競技、バスケットとなんでもこなす万能プレーヤーだった。海兵隊入りしてボクシングを始めたノートンは、たちまちオール・マリンのヘビー級チャンピオンとなり、サンディエゴの実業家グループに勧誘されて67年にプロ入り。

17連勝(16KO)と好調だったが、南米の強打者ホセ・ガルシアに不覚のKO負けを喫し、連勝はストップ。その後は無名を相手に再び連勝記録を伸ばし、73年3月、アリのアゴを割って判定勝ち。10年に1度あるかないかの番狂わせと言われ、ノートンは一躍ヘビー級のトップに踊り出た。9月の再戦では小差の判定負け。翌74年3月、世界ヘビー級王者フォアマンに挑んだが、2RKO負け。その後、クォーリーを5RKO、ガルシアにも5RKOで借りを返すなど、見事に復活したノートンは76年9月、アリの王座に挑んだが不可解な判定に泣いた。

77年11月、世界1位のノートンは挑戦者決定戦で2位のヤングに判定勝ち。翌78年3月、WBCはノートンとの試合を拒否したスピンクスの王座を剥奪、ノートンを王者に認定した。ようやく手にしたタイトルだったが、同年6月の初防衛戦でホームズに小差の判定負けで王座から転落。結局世界戦では1度も勝利を収めることは出来なかった。
1945年生れ。50戦42勝(33KO)7敗1分。

■ラリー・ホームズ(米国・王座在位 78年6月9日〜83年12月11日剥奪)

ジョージア州カスバード生まれ。20歳でボクシングを始め、アマで19勝3敗の成績を収めた。ビッグ・タイトルとは無縁で、僅かにAAUのニュージャージー州チャンピオンになったのみである。

73年にドン・キングにスカウトされてプロ入り。アリのスパーリング・パートナーを務めながら腕を磨いたホームズは連戦連勝の快進撃を続け、78年6月、ノートンに挑戦。一進一退の激しい打ち合いとなったが、終盤にポイントを挙げたホームズが僅差の判定勝ちでWBC王座に就いた。
80年10月、8度目の防衛戦の相手に老雄アリを迎えたホームズは終始リードを奪い10R終了TKO勝ち。アリの時代に完全なる終止符を打った。82年6月、12度目の防衛戦ではホワイト・ホープ、ゲリー・クーニーの挑戦を13RTKOで一蹴した。WBCのタイトルは17度防衛(13KO)した後、83年12月に剥奪されたが、IBF認定の王者としてその後も3度の防衛(通算20度)に成功した。

85年9月21日、Lヘビー級王者のマイケル・スピンクスに判定で敗れてタイトルを失い、翌86年4月の再戦でも判定負けした。88年1月にカムバックしてタイソンに挑戦したが、3度のダウンを奪われ4RKO負けの惨敗。その後もホリフィールド(92年、統一ヘビー級)、マッコール(95年、WBCヘビー級)と挑んだが、いずれも判定で敗れている。
1949年生れ。66勝(43KO)6敗



<年代別>
■1970年 ■1971年 ■1972年 ■1973年 ■1974年 ■1975年 ■1976年 
■1977年 ■1978年 ■1979年
<階級別>
■フライ級 ■バンタム級 ■フェザー級
 ■ライト級 ■ウェルター級 ■ミドル級 
■Lヘビー級 ■ヘビー級

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